霊峰市房山・お嶽さん参りの郷、水上村。
約300年続く歴史ある文化は今も息づいています。
「市房山神宮」と「お嶽さん参り」。
霊峰として鎮座する市房山の麓にある水上村。希少価値の高い多種多様な動植物が共生するこの地域には、古来より続く貴重な自然、歴史、そして文化が今も息づいています。
水上村にそびえる市房山は、球磨人吉地域では古来より信仰の山として「お嶽さん」の名で親しまれ てきました。そのお嶽さんの中腹(四合目)には、市房山を信仰の対象とした市房山神宮があり、旧暦の3月15日の夕方から16日にかけて、球磨人吉地域の人たちが一斉にこの市房山神宮にお参りにきていました。それは「お嶽さん参り」と呼ばれ、昭和30年代まで約300年もの間ずっと人々に親しまれ、地域の一大イベントとして存在していました。
お嶽さん参りのはじまりは「化け猫騒動」。
お嶽さん参りの始まりは、今から400年以上前の1582年、球磨人吉地域を相良藩が治めていたころのお話です。地元では有名な「化け猫騒動」が起き、それは猫の怨念が引き起こしたとされ、その怨念を鎮めるために、当時の藩主が藩民に、その騒動と関連のある場所「猫寺(生善院)」や「市房山神宮」をお参りするように命じたことが、お嶽さん参りの始まりとされています。
300年もの長い間愛された 「お嶽さん参り」。
化け猫騒動後もお嶽さん参りは、300年間以上ずっと続いていきました。その理由は、お嶽さん参りが地域の人々にとって、やがて年に1度の楽しい「お祭り」として定着し、親しまれてきたからと考えられています。
まだ交通機関も発達しておらず娯楽も少ない時代で、当時多い時では2000人もの人々が数珠つなぎになって、夕方から夜にかけ市房山神宮を目指し登っていたと言われています。麓から市房山神宮までのその様子は、人々がもつ提灯の灯りや山道沿いの松明で、光の帯のように見え幻想的な風景が広がっていたといいます。
形を変え賑わいをみせた村一番のお祭り。
多くの人々が参加するお嶽さん参りは、男女の出会いのきっかけの場や遠方から来る人々との交流の場として、地域の人々にとって一年間で一番楽しみな行事となっていきました。
登山口近くでは食べ物や焼酎、傘や杖などを売る出店があり、提灯を片手に、傘の先にお菓子を吊り下げて登ることもあったといいます。遠方から参加する人も多く、日帰りでは大変だと宿泊や公共施設を開放するなど、普段出会うことのない人々とともにお酒と酌み交わしたり、交流を楽しむイベントとして大変賑わい、水上村の文化となり根付いていきました。
「お嶽さん参り」の今とこれから。
賑わいを見せていた御嶽さん祭りも、時代の流れとともに昭和30年後半から衰退し、今ではほとんど登る人がいなくなってしまいました。なかには賑わっていたお祭りに愛着があり、懐かしむ声や復活を願う声も多く聞かれます。
今でも旧暦の3月15日の晩には、地元の有志によるお参りが続いています。また当時は男女の出会いの場となっており、実際に結婚へ結びつくカップルも多かったことから、良縁にめぐまれるとして、近年では縁結びとして訪れる方もいらっしゃいます。市房山神宮までの自然や市房杉に触れながら登山を楽しむ「市房山トレッキング・セラピーツアー」なども開催され、当時に思いを馳せながら、お嶽さん参りを小体験することもできます。
猫寺(生善院)とお嶽さん参りのつながり。
お嶽さん参りのきっかけとなった「化け猫騒動」。天生15年、村にある普門寺の住職・盛誉法印がいわれのない濡れ衣を着せられ相良藩の使者によって殺され、さらに寺も焼かれてしまいます。盛誉法印の母親・玖月善女は、殺された息子の恨みを晴らすため、愛猫を連れて市房山神宮にこもり、断食の後、「茂間が淵」に猫を抱き身投げをしてしまいます。
その後相良藩では、毎夜猫の怨念が夜叉に化けて藩主を苦しめたり、次々に奇怪なことが起こり始めます。この怨念を鎮めるために、藩主は藩民に、毎年3月16日に玖月善女が立てこもった市房山神宮・身投げをした茂間が淵・そして元普門寺跡に建てた生善院(通称:猫寺)の3箇所へ参拝へ行くよう命じたと言われています。この一連の騒動が、今のお嶽さん参りに繋がっているとされています。
参考:「御嶽さん参り」水上村観光協会